はじまりの風景 -窓の外に広がるリアルな絶景を探しにニュージーランドへ-

2004年、カリフォルニア。空はおもしろいくらいに広くて海はどこまでも青い。波の音に混じって聞こえてくる音楽はシリアルみたいに軽くて、僕は何をするでもなく、ただこの広い世界を見つめている。

-はずだったのに。

Atmoph(アトモフ)代表の姜京日(かんきょうひ)は、カリフォルニアにある無機質なアパートの一室で、悶々とした思いを抱えていた。当時はアメリカの大学院に留学中で、授業と課題に追われる日々や研究へのプレッシャーで、重い閉塞感はつのるばかり。なんとかしたいと思うも、解決法は見つからなかった。

その後日本に帰国した姜は、フロントエンドエンジニアとして働きながらも模索をつづけ、やがてそれは「デジタル窓」という答えにたどり着いた。

「ふと顔を上げたとき、広大なこの世界を、ほんの少し狭めてくれる。ひとりの人間の世界を、ちょっとずつ広げてくれる。」そんな窓を作りたい。世界ではじめてのスマートなデジタル窓「Atmoph Window」に映す、はじめての風景を見つけるまでのストーリー。

スタートアップ立ち上げ後の大きな壁

__今では1,000種類以上もあるAtmoph Windowの風景動画ですが、最初はプロのビデオグラファーではなく姜さんが撮影したそうですね。それはなぜですか?

2014年8月に、僕とソフトウェアエンジニアの中野、デザイナーの垂井の3人でアトモフを起業しました。長いあいだ僕の中であたためてきた「デジタル窓」というコンセプトを実現し、製品として量産するために、まずはクラウドファンディングによる資金集めが必要でした。ただ、そのためのデモ機がまだなく、そのころはハードウェアの開発と試作を繰り返していましたが、当然、液晶に映す風景の動画が必要になり、そこで大きな壁にぶち当たりました。

というのも、この製品は単にスマートディスプレイというだけではなく、本物の窓みたいに感じられるというところを目指していたので、実際の窓から見えるような風景じゃないとだめなんです。そうなると、4K動画なのはもちろんですが、定点カメラでずっとおなじ風景を撮影したものが必要だったんです。ところが、そんな映像は当時、世界中どこを探してもありませんでした。きれいな景色の映像はたくさんあるけれど、どれもカメラが動いているんです。動かない一点で風景を撮影した動画は、実は今でもほとんどありません。

そういうわけで、自分たちで用意するしかなかったんです。幸い、発売当初500万円くらいしていた4Kカメラが50万円くらいまで下がっていたので、とりあえずカメラは買いました。でもカメラマンがいない。じゃあ僕がやろう、と。

__最初の風景としてニュージランドが選ばれた理由はなんだったのでしょう?

製品のコンセプトには自信があったので、デモ機を見せたときに、風景が残念なせいでコンセプト自体の評価が下がるのが嫌だったんです。だから、風景はめちゃくちゃいいものを用意したくて。そして、それを見せる相手が日本人の投資家の場合は、わっと驚かせるためには見慣れた日本の風景じゃないほうがいいと思いました。

じゃあどこにしようかと考えていて、思いついたのがニュージーランドでした。ロード・オブ・ザ・リングなど、数々の映画のロケ地になっているこの国なら、驚くような絶景は約束されています。しかもその時ちょうど12月で、南半球のニュージーランドでは夏だから、明るくてきれいな風景が撮れると思いました。

Photo by Thomas Schweighofer on Unsplash

__具体的にニュージーランドのどこに行きましたか?

ニュージーランドは大きく2つの島、北島と南島に分かれています。どちらにもたくさんきれいなところはありますが、一番に目についたのが南島にあるマウント・クックと、その近くにあるレイク・テカポでした。マウント・クックは先が尖った形の美しい山で、ニュージーランドの最高峰。レイク・テカポは、満天の星空と石造りの教会が有名な湖です。この2つを拠点にして、他にもいくつか絶景ポイントをまわる計画で日本を出発しました。

4Kカメラと三脚など他の機材、自分の荷物を合わせて15キロ以上の荷物をかついでいましたが、その荷物よりも、自分にのしかかるプレッシャーの方がはるかに重く感じていました。とにかく焦っていました。実際、この撮影にアトモフの運命がかかっていたんですが、なにしろ初めてのことだから、うまく撮影できるかなんて全然わかりません。「旅費もけっこうかかるのに、思うようなものが撮れなかったらどうしよう。」そんな不安に押しつぶされそうでした。

思いどおりに進まぬ撮影と、思いがけないアクシデント

__現地での撮影はどのように進みましたか?

クライストチャーチ空港からレンタカーを借りて、3時間くらいかかってレイク・テカポに着きました。さっそくテカポから撮影を開始し、天気にも恵まれてすごくきれいな青い湖の風景が撮れました。実はこの湖は、天候や時間帯によって全然違う色に見えることで知られていて、実際その2日後に見たときは全然違う色だったので、幸先のいいスタートが切れたと思いました。

最初の撮影は、有名な「良き羊飼いの教会」があるテカポ湖から

けれど、撮影を始めて2日目。3時間走っても景色がまったく変わらないような農業地帯のど真ん中で、なんとタイヤがバーストして大破。周りには誰もいなくて、いるのは羊だけ。携帯の電波も入りません。ひたすらだだっぴろい農地にたった一人、呆然と立ち尽くし、これでこの旅は終わりだと思いました。撮影を始めたばかりなのに、僕が持って帰る映像を日本で待つ2人のことを思うと、「なんのためにここまで来たんだろう」と、情けなくて悲しくて、涙がでました。

そうしてしばらく道の真ん中で途方にくれていたのですが、ふと落ち着いてトランクの中を調べると、ちゃんとスペアタイヤが積んであったんです。それまでにやったことはなかったけれど、なんとかタイヤを交換することができて、再び走り出しました。そのまま町の修理工場に行き、直すのに1日かかりましたが、無事に撮影を続けることができました。

Atmophの風景はこんなふうに撮られている

__Atmoph Windowの風景動画の撮影方法について教えてください。

絶景と呼ばれる場所は世界中にたくさんあり、具体的にどのポイントから撮影すると良いものが撮れるという情報は、実はフォトグラファーやビデオグラファー同士でたくさん共有されています。ところがその撮影ポイントが、Atmophにとっての最適だとは限らない。なぜなら、今人気のある写真って、迫力が出るようにすごくワイドで全部が入るように広角で撮られていたり、たとえばビーチの砂から空まで全部撮れるように地面の高さから撮られていたりするものが多いんですが、Atmophはあくまでも窓であって、窓からそんな風景は見えないんです。僕らは窓としてのリアリティをとことん追求したいと思っています。「窓から見える風景」としてのリアリティを。

だから実際に現地に行ってから、撮影に適したポイントを探さないといけないことがほとんどです。しかも写真と違って音も必要なので、景色がきれいで、人や車が通らなくて、邪魔な騒音も入らない場所って、そうそう見つかりません。

__撮影で大変なことは?

撮影ポイントを見つけるだけでもかなりの苦労なのですが、ようやく見つけた場所で撮影していて、あともうちょっとで撮り終わる、というまさにそのときに大きなトラックがすぐそばを通り過ぎたり、おじちゃんが話しかけてきたりする、「何やってるの?」みたいな。マイクで音を録っているから、ジェスチャーで「シーっ!」とやるんだけれど、構わずずっと話しかけてくるんです。そうなると最初からやり直しです。

そんな感じで撮影は思った通りにいかないことばかりで、しかも「撮れなかったらどうしよう」という焦りとプレッシャーとの闘いです。ただひとつ癒しだったのが、実際にカメラを回している間です。というのも、撮影中は音を立てられないので、自分もカメラのそばでじっとしているしかない。その間だけは、常につきまとう緊張感から解放されて、1人静かに座ってただ目の前の自然と向き合う、それはほんとうに素晴らしい時間でした。

はたして「窓の外のリアルな風景」は撮れたのか

__無事に目的は果たせましたか?

7日間の滞在で、20カ所以上で風景を撮影することができました。その時点では、それらの動画が実際に使えるクオリティなのか確信はなかったけれど、自分の中では目的を果たせたという感じはありました。最終日、車で空港に向かっているときにふと振り返ると、とてもきれいな虹が見えたんです。その時なんとなく、虹が「よくやったな、これでAtmophは良いスタートを切れるはずだ」と言ってくれているような気がして。とても印象的な風景でした。

最終日空港へ向かう道、虹が出てこれからの道を応援してくれているように感じた

とはいえ、日本に帰国して、中野と垂井の2人に自分が撮影した動画を渡すまでは、まだ安心はできません。特に垂井はデザイナーだから、見る目は厳しいものがありますから、動画を見せる時はかなりドキドキしました。幸い、「これはすごくいいね」と言ってもらえたものがいくつかあって、そこで初めて、それまでずっと感じていた重荷から解放されました。その後、うまく撮れた風景をデモ機に映してプレゼンを行ない、アメリカのクラウドファンディングのKickstarterで約2,000万円、日本のMakuakeでは約680万円の資金を調達することができ、初代Atmoph Windowの量産が叶いました。

その後の風景撮影

__今、Atmophの風景撮影をしているのは?

今は10人ほどのビデオグラファーがAtmophの風景を世界各地で撮影してくれています。インディージョーンズの映画に出てきそうな場所から、富士山やヒマラヤまで、風景動画の撮影はかなり過酷なことが多いんですが、彼らはそんなことは口に出さず、体を酷使してひたすらより良いものを追求する、男気溢れる人たちです。

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僕が撮ってきたニュージーランドの風景も、もちろん彼らの方がもっと上手く撮れるのだろうと思います。でも僕自身が実際にカメラをかついで撮影に行ったからこそ、たとえ良いものを撮りたいと思って一生懸命やっていても、いろんなことが起こってそれが叶わないことや、単純に機材をもってあちこち動き回ることがいかに大変かを、身をもって理解できるし共感できると思っています。実は風景撮影に関しては、撮れ高もノルマもありません。それはビデオグラファーとの信頼関係が第一という考えが僕にあるからで、そう思えるのは自分が最初に行ったからだと思います。たまに撮影の苦労話なんかを聞くと、本当にありがたいといつも思っています。

夢のつづき

最初は、たった3人のメンバーで1つの風景から始まったAtmophも、今では20人ものメンバーが参加し、窓からは1,000本以上の風景が楽しめるようになりました。世界各地に広がる景色だけではなく、アンドロメダ銀河やISSから見た地球など、リアルな窓からは体験できない冒険も、一緒に届けていけたらと思っています。

ニュージーランドで撮影した場所

上の撮影した風景は、こちらで見れます。